プラモデルの原型・金型の謎

プラモデルの原型・金型の謎



特撮秘宝Vol,2(洋泉社)に今井科学でサンダーバードなどのプラモデルの原型を担当したという江澤清嗣氏のインタビューが掲載されています。
ゼンマイボックスをカセット式に取り外すのは同氏のアイディアだったなど興味深い事実が語られているのですが、「木型・原型・製品」などの言葉が解説もなく文中に出てくるので正確な意味がわかりにくく、ちょっと残念な記事になってしまっています。



一方サンダーバードプラモデル大全(双葉社2006)では同じころ外注の立場で試作品作りをした諸星木型制作所に取材しており、木型や金型の制作方法についても言及されています。
金型制作のもとになる「マスター木型」の存在など貴重な情報が書かれていますが、通常の木型とマスター木型を混同しているように読める部分などもあり、いまひとつ明解さに欠けるようです。

そこで、これら2冊を読み合わせた情報をもとにサンダーバード当時の今井科学のプラモデル制作過程について考えてみました。
ただし限られた情報から想像している部分も多く含まれていて、確定した事実ではないことをあらかじめご理解下さい。




1.商品企画が出されるとまず「案図」という図面が作成される。
 案図の形式には決まりがなかったようで、キャラクターのおおまかなサイズのみ指定したラフなものからきちんと製図されたものまでさまざまだったという。

2,案図をもとに試作品を作る。材質としてホウの木が使用されるためこれを「木型」と呼ぶ。
 商品の具体的なプロポーションや内臓ギミックはこの段階で木型制作者が決め込むことになり、電動ギミックなども基本的に商品状態と同じものが仕込まれる。パーツ分割もある程度考慮される。
 ギミックを仕込む前の外形部分については諸星木型制作所などに外注する場合もある。
 また外形が得意な者とギミックが得意な者が協力するなど複数の木型担当者が関わる場合もある。

3,木型が完成すると発売の可否が検討される。
 この時点で問題があれば修正したり、企画がボツになる場合もある。
 例えばサンダーバード1号は空気圧でロケットのように発射するギミックで木型が作られたが、破損の可能性が問題となり電動走行に企画変更されている。

4,発売が決定すると木型をもとに設計図面を描く。
 この時点でプロポーションやギミックは図面担当者があらためて決め込むことになり、木型とはやや異なるものになる場合も多いと思われる。
 最終的な商品の形状はこの設計図面に忠実なものになる。

5,設計図面をもとに「マスター木型」を作成する。
 この木型は図面を忠実に立体化したもので、当初の木型とはまったく性質の異なるもの。
 マスター木型ではギミックなどは再現しないと思われる。

6,マスター木型をパーツ単位に分割し、デブゴンというアルミ粉入りの樹脂で型取りしてメス型を作る。
 この樹脂は金属のように硬化する。

7,立体彫刻機でメス型の表面をなぞる(ならう)ことで金型に形状を写し取る。
 これでメスの金型(パーツの表面を形成する)が出来る。

8,メス金型に合わせて、パーツ裏面を形成するオス金型を作成する。
 オス・メス一対の金型の隙間にプラスチックを流し込むことでプラパーツが成型される。

9,テストショットと調整を繰り返して製品化され、量産へ。
 フィギュアの顔など微妙な部分の金型調整は金型業者とは別に「彫刻屋」と呼ばれる専門業者が担当したという。


サンダーバード当時のプラモデルの制作過程はおおむね以上のようなものだったのではないかと思われます。
特撮秘宝の江澤清嗣氏が担当した原型とは2の段階の木型だったようです。
また木型やマスター木型は本来の用途とは別に見本市での展示や広報用写真などに使う目的で複数作られる場合もあったようです。

このような制作過程は今井科学倒産後はバンダイ模型にも引き継がれ、1980年代にデジタル技術が導入されるまで基本的に踏襲されていたようです。



これはロマンアルバム機動戦士ガンダム(徳間書店1980)掲載のガンプラ予告広告。
ガンダムは700円サイズ、ザクとムサイは300円サイズと思われる試作品が掲載されており、これらは上記2の段階の木型と思われます。
ザクはこの時点では足首が可動しているようにも見えます。



こちらは1998年ころのキャラ通(文化産業新聞社)に掲載されたガードマシン(ダンガードA)の写真。
2の段階の木型と製品では細部形状が微妙に異なっているのがわかります。




プラモデルの制作過程を以上のように考えても、いろいろとわからない部分が残ります。
例えば同一形状のパーツが複数個あるような場合です。


具体的にはタイヤのホイールのようにひとつのキット内で複数の同一パーツが必要な場合や、廉価キットなどで当初からひとつの金型に複数セット分のパーツを彫刻する場合、あるいは同一形状のパーツを複数の商品の別ランナーで共有する場合などです。

上記の制作過程で考えれば、このようなケースでは6で作った樹脂製のメス型を複数回なぞることで同一パーツの金型を複数彫刻できそうに思えます。
ところがサンダーバードプラモデル大全に掲載されている写真では、タイヤなども必要な個数のマスター木型が制作されていたようです。
これは樹脂製のメス型は複数回の使用には耐えられないことを意味しているのでしょうか。

そうだとすると立体彫刻機でなぞるための原型がその都度必要になるわけで、複数個のマスター木型を制作しておかなくてはなりません。
あとから追加的にそうした必要が生じた場合(例えば予想外の売れ行きで増し型を作る際など)には、成型したプラ部品をマスター木型の代用にして樹脂で型取りし、立体彫刻機でなぞっていたようです。





上の画像はモデルボーグのグレートマジンガーとゲッター1ですが、それぞれゴールドとメタリックブルーで塗装されたパーツは同一形状になっています。
このようにまったく異なるランナーに同一パーツが配置されている場合には、開発が同時期であればあらかじめふたつのマスター木型を作成していたと思われます。
開発時期にずれがあれば、この場合には先行のグレートのプラ成型パーツをマスター木型の代用にしてゲッター1の金型が彫刻されたものと考えられます。

あるいはこのころには、樹脂などによるマスター木型の複製も可能になっていたでしょうか。
それとも金型がひとつのカタマリではなくいくつかに分割されていて必要な部分を入れ替えるなどして対応していた可能性もある?



こちらはパズルモシリーズのライディーン(向かって左)とゴッドバードのパーツ比較。
白いランナーは共用されているように見えますが、丸で示した部分のパーツ配置だけが異なっています。
パーツの形状自体はまったく同じなので不思議に思っていましたが、立体彫刻機でなぞる対象の形状は同じでも金型が別ならばこのようなことも起こりうるのだと思われます。

この場合、ライディーンとゴッドバード両方のパーツが付いた状態で成型して不要部分をカットしているのではなく、当初から別の金型での生産が予定されていたと考えた方がいいようです。




他にもいろいろとわからないことがあります。

パーツ分割はどの時点で確定されるのか、関節やギミック部など外形に表れない部分のパーツ形状は設計段階で決めるのか、パーツすべてに詳細な図面(四面図とか六面図とか?)が作成されるのか、だとすればそれらはすべて一人の設計者が描くのか、ランナー内でのパーツ配置の決め方はどうなのか、などなど…


今回は少ない資料をもとに金型作成について考えてみましたが、もともと工学系の知識に乏しいのでどの程度実情に合致しているのかはわかりません。

より詳しい知識や資料をお持ちの方はご指摘いただけると幸いです。


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[ 2015/12/27 18:32 ] 暫定 | TB(0) | CM(1)

ロボ・ロボ・ロボ

つなぎ更新です。




前回の記事でお面を並べた際、特にジャイアントロボの完成度が高いことを再認識しました。
造形もいいし、微妙なメタリックの色調がすばらしいです。

で、ついでにロボの人形を並べてみました。



中央はトミーのポリ人形(ノスタルジックヒーローズ復刻版)、向かって左はブルマァク大サイズ(腹部に破損あり)、右はパイロットエースのリアルソフビです。



本放送時のメイン玩具メーカーはトミーでしたがソフト人形は発売されず、ポリ製人形と手踊りが主力だったようです。(追記:手踊りはツクダヤからの発売です)
ポリ人形は他にギロチン帝王と原作準拠のGR2、GR3がラインナップされました。
手踊りでは映像に登場するダブリオンやドロゴンなどの怪獣も商品化されています。



放送終了後の1970年ころになってブルマァクから大・特大・ミニの3サイズのソフト人形が発売されました。
再放送が頻繁に行われていたのでうれしい商品化でしたが、造形がいまひとつなのが残念。
同時期にブルマァクは鉄人28号とマグマ大使もソフト化しており、これら3キャラクターはそろってクラウンからプラモデルにもなっています。

「帰ってきたウルトラマン」放送以前にはウルトラ以外の特撮キャラクターとしてマグマ大使やジャイアントロボはメイン級の存在でした。
鉄人は当時すでに「昔のキャラクター」という印象でしたが、原作漫画終了からは4~5年しか経過していなかったので実際はさほど古くはなかったのですね。



2000年代に発売されたパイロットエースのリアルソフビは、数あるロボ人形のなかでも出色の出来です。
ジャバラを軟質素材に置き換えて関節を内蔵すれば究極の可動フィギュアになりそうなので、メディコムあたりで商品化してくれないかな~と思っているのですが…


同シリーズのGR2も実にカッコイイです。
パイロットエースはすでにメーカー活動を休止していますが、ビリケン商会と並び得るレベルの製品を生み出していただけに残念です。
制作中の原型が発表されていたウルトラマンBタイプ、発売して欲しかった……


[ 2015/12/19 11:44 ] ソフト人形 | TB(0) | CM(0)

スーパーカー・ブーム

スーパーカー・ブーム




1976年後半から78年春ころまで、熱狂的なスーパーカーブームがありました。
画像は当時発売されていた1/28ダイキャストミニカー、グリップテクニカのランボルギーニ・カウンタックLP500Sとポルシェ930ターボです。







クルマにまったく興味がない私でもブーム時にはそれなりにスーパーカーにはまりました。
上の画像は地元新聞社主催のスーパーカーショーの半券とそのとき撮影した写真、いずれもカウンタックが表紙のアルバムに貼ってあります(^^;

基本的にキャラクタージャンルにしか興味のない子供でもブームにはまったのは、当時スーパーカーは自動車であると同時にきわめてキャラクター的に受容・消費されたからではないかと考えています。



当時のブームについては画像のような雑誌をはじめさまざまな媒体で語られていますが、当ブログでは本来キャラクタージャンルが好きだった立場から見たブームについて書いてみます。




スーパーカーブームのきっかけが少年ジャンプの連載漫画「サーキットの狼」だったことはよく知られています。
1974年末から開始された同作は当初人気が低迷して打ち切りの危機もあったそうですが、数ヶ月で高い支持を獲得して人気漫画になったそうです。


そして「サーキットの狼」の人気が盛り上がってきた75年後半ころから、ランボルギーニミウラやポルシェ911などのプラモデル・ミニカー類の売り上げが上昇するという現象が起こり始めていたようです。
アオシマ関係者のインタビューでは、このころ既に有名外車ディーラーにカメラを持った子供たちが集まっているのを確認していたと語られており、75年の終わりころにはブームのきざしが表れていたと考えられます。
ただし、この時点ではそうした現象の発信源が「サーキットの狼」であると気付いていた関係者は多くはなかったようです。
上の画像はこのころ人気だったプラモデルの一例、オオタキの1/12ポルシェ911ターボ(74年発売)。



翌1976年になると、一連の現象が「サーキットの狼」登場車を求めてのものだったことに気付いた日東科学が正式版権を取得して6月から「サーキットの狼」プラモデルシリーズを展開します。
画像は同シリーズの1/24ランボルギーニ・イオタ。

この段階で人気の焦点は同作に登場するヨーロピアンスポーツカー(のちのスーパーカー)であることが共通認識となりました。
さらに同年10月には日本初のF1グランプリが開催され、6輪車タイレルP34をはじめとするF1マシンの人気も加わってブームが加熱していきます。
ただし、プラモデルや玩具の開発には数ヶ月単位の時間がかかるため、76年の年末商戦にはいわゆるスーパーカー商品はほとんど間に合わなかったようです。


76年後半の玩具・模型界では、ブーム以前に開発・発売されていた商品ラインナップの中でたまたまスーパーカーに含まれる車種があるとそれを前面に出す、という程度の展開がせいぜいだったようです。
画像はニッコーのセミデラコン、タイレルP34。ブームと無関係に開発されていて日本GPよりも早く発売され、CM放映の効果もあって人気となった商品です。




日東の「サーキットの狼」シリーズは、版権を得たキャラクター商品でありながら内実は純粋な自動車プラモデルであるという点がユニークでした。

日東とすれば既に金型を所有している既存の自動車プラモをシリーズにそのまま投入したり、逆に「サーキットの狼」シリーズとして開発した自動車を一般のスケールモデルとして発売することが可能です。
ユーザーの立場では、例えば日東よりもっと大きなサイズのプラモが欲しいとか、もっと精密なプラモが欲しいなどの欲求があれば、他社のスケールプラモがその選択肢に入ることになります。


画像はバンダイ模型の1/16フェラーリ・ディーノ(ディーノ206コンペティツィオーネ)。
もとは今井科学から継承した製品ですが、ブーム時には車体が赤で成型されています。


箱側面の完成見本も赤い車体になっており、あきらかに「サーキットの狼」の主役マシン「フェラーリディノ・レーシングスペシャル」のデラックスプラモという位置づけを狙っていることがわかります。


当時は自動車の商品化にあたっての権利事情はかなりゆるやかでハードルの低いものだったと思われ、1977年には大メーカーから中小メーカーまでがこぞってスーパーカー市場に参入してとんでもない数の商品が市場に溢れました。

キャラクターものであれば商品化権は特定メーカーにしか許諾されませんが、無数のメーカーが競うように商品を発売しまくったことがスーパーカーブームの熱狂度を上昇させていたと思います。





ブーム初期には「サーキットの狼」最初の主役マシンであるロータス・ヨーロッパが人気の中心だったようですが、ブームの拡大とともに情報の周知が進むにつれランボルギーニ・カウンタックがスーパーカーを代表する人気車種となりました。

カウンタックの独特な車体デザインや上に跳ね上がるドア、リトラクタブルライト、公称300Km/hの最高速度などは当時の少年が日常生活で接する乗用車とは大きくかけ離れたものでした。
むしろそれは特撮やアニメに登場する架空のマシンに近く感じられ、それまで自動車に関心のなかった子供も興味を惹かれることになったと思われます。
日常性からの乖離という意味で、カウンタックは当時のスーパーカーの中で最もキャラクター的な存在だったと言えそうです。

上の画像はアオシマの1/20カウンタックLP400。カウンタックとしては初めての本格的な立体商品であり、76年12月発売時のオレンジ車体の初版はまたたく間に売り切れ状態になったそうです。
画像の現物は箱絵と成型色を変更した普及品。当時は車体を塗装しないライトユーザーが多かったので成型色には大きな意味がありました。




F1マシンのタイレルP34も、通常4輪であるべきタイヤが6輪あるという特徴が非日常性を感じさせ、キャラクター的な魅力となって人気を集めていました。
画像はグリップテクニカの1/20モデル。



ブームを受けて制作されたアニメ作品に登場するF1マシンがいずれも6輪や8輪になっていることが、タイレルP34のキャラクター的な人気の高さを示しています。




もともと自動車に興味のない立場からすると、スーパーカーの魅力は普通の乗用車とはかけ離れた非日常性にあり、実質的にキャラクタージャンルの架空のマシンに近いものでした。
キャラクターに近い存在であるなら、商品展開も通常の自動車の範囲にとどまらずキャラクターに倣ったものになります。
結果として、ブーム時にはあらゆるジャンルの製品がスーパーカー商品になりました。

玩具や模型はもちろん、駄菓子屋ではカードやブロマイド、消しゴムをはじめさまざまな駄玩具が。
スーパーや食料品店では菓子・飲料メーカーがスーパーカーを使ったキャンペーンを展開。
雑貨店にはスーパーカーのついたコップや食器、ごみ箱などの日用品が。
文具店ではノート、下敷き、筆箱から鉛筆までがスーパーカー商品になっています。
レコード店にはエンジン音を収めたレコードやアイドルの歌うスーパーカーソングが並びました。
前述の通り、通常のキャラクターと違って版権の制約がないために膨大なメーカーが参入して空前絶後の商品供給となりました。


書店には若者向けのグラフ誌から少年向けの図鑑、幼児向けの絵本などのスーパーカー書籍や特集雑誌が大量に並びました。
画像はケイブンシャのムックと二見書房のカード図鑑。

こうした中で、テレビマガジン、テレビランドなどのキャラクター雑誌や学年誌でもスーパーカーが掲載されるようになります。


1976年ころから実写ヒーローやアニメは大半が幼年向けに特化してしまい、玩具メーカーとのつながりが強化される一方でユーザーの総数は減少して、ジャンル全体の人気が沈降していきました。
変身ブームのころには小学5、6年生でも普通にライダースナックを買っていたことを考えれば、4~5年のうちにキャラクター作品のファン層がかなり縮小していたことがわかります。
例えばテレビマガジンでは76年後半からは柱となるキャラクターが不在で毎号のように表紙のメインキャラクターが変更され、77年前半には画像のように特定のキャラクターで表紙を構成することすら出来なくなっています。



キャラクター全体が弱体化していたこの時期に、それを補う勢力として玩具発キャラクターのミクロマンとともにスーパーカーが誌面をにぎわすことになります。
本来は仮面ライダーやマジンガーが飾っていたテレマガの表紙にメインで掲載されているカウンタックは、やはり自動車というよりキャラクターとして扱われているように思えます。





そしてカウンタック=キャラクターを決定的に体現しているのがこちら、なんとカウンタックのお面です(^^
ライトとドアを上げた状態のカウンタックを正面からとらえて顔に見立てているのでしょうか。


車体下部とバンパー(一部破損あり)がのぞき穴になっていて、メガネのように装着するようです。



他のヒーローお面と並べてみると、いわゆるスーパーカーショーはヒーローのアトラクションショーと等質なものだったという見方もできそうです。

このように、実在の自動車でありながらまるで空想上のキャラクターのように受容・消費されていたことが当時のスーパーカーブームの特徴であり、空前の規模と広がりを見せることになった要因のひとつだったと思います。




その後スーパーカーブームは78年春ころを境に急速に終息します。
初夏ころにカウンタックのニューモデルが発表されましたが、その時点では世間的な反応はきわめて静かなものだったと記憶しています。

もともとスーパーカーブームは、
・自動車(実在のメカ)のファン ・カメラで撮影するのが好きなファン ・プラモデルファン ・ミニカーファン 
・ラジコンファン ・キャラクタージャンルのファン ・流行に乗っただけのライトファン
などのように多様なファン層が集合して形成していたものです。

それぞれのファンが自分本来の領域へと回帰することで、ブームは自然消滅したのではないかと思います。

個人的には、77年夏の宇宙戦艦ヤマト劇場公開をきっかけにキャラクタージャンルが中高生以上でも嗜好するものとして再認知されたこと、特にロマンアルバム(徳間書店)やファンタスティックコレクション(朝日ソノラマ)などで作品の基礎資料が出版されるようになったこと、を受けてアニメ・特撮というキャラクタージャンルに興味の中心が移っていき、スーパーカーからは自然にフェードアウトしました。


自分のクルマに対する知識や興味はスーパーカーブーム時のものがすべてで、それ以前もそれ以降もまったくわかりません。
今回の記事に間違いなどあればご指摘ください(^^





[ 2015/12/14 01:41 ] 暫定 | TB(0) | CM(8)